鬼のファイル

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パソコンに保存した写真を、友人が探していた。
自分も整理ができていないくせに、ちゃんと名前をつけて仕分けしておかないからよ、などと私は偉そうに言う。
ひとのことを言うのはたやすい(^^ゞ

あれでもないこれでもないと、片っぱしからファイルを開けているのを、見るともなしに見ていた。
すると、スクロールした中に「鬼」と名をつけたファイルがあるのが、チラッと見えた。

冗談まじりに「鬼のファイルはなに?」と尋ねたけれど、本当に見たかったわけじゃない。
いつも元気で明るいその人にも、鬼のファイルはあるのだということに、どこかで新鮮味を感じ、どこかで安堵した。
それだけでいい。

そして、その後、きっと誰もが「鬼」のファイルを心に持っているんだよね、と話した。
捨てたいのに捨てられず、かといって開ける勇気もなく、間違って開けないように、ノンタイトルの中に「鬼」と名付けたファイル。

その友人がそうだというわけじゃない。
私が勝手に、「鬼」という言葉からイメージしただけ。
なんのことはない、節分やなまはげの写真が保存してあるだけ、かもしれない(^^ゞ

でも。
こういうささいな発見が、私を快く裏切るとき、人というものを旅することの奥深い味わいを感じたりするのだ。
そして、「鬼」のファイルをどこにも持たぬ人のほうを、かえって怖いと思ったり。

昨日、採用の連絡をもらった。
正直、この年齢で、こんなにすんなりと転職できると思っていなかったので、ありがたくもびっくりしている。
私の「鬼」のファイルに、これから何が追加され、何が削除されるのだろうか。
確実に老い、そして死に近づいているけれど、やはり、生きていくことは楽しい。



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「大丈夫と 言いし君の 半分は嘘 大丈夫と 答えし我の 半分も嘘」

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# by kazematic-night | 2018-09-20 09:59 | 日常 | Trackback | Comments(0)

同時に果てるのがベスト

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和食でも洋食でも、コース料理が苦手だ。

理由のひとつは、お腹の算段ができないことにある。
最初にサラダを食べるのが健康にいいらしいことはわかっている。

しかし、空腹にまかせてサラダだのスープだのオードブルだの、ガツガツと食べてしまい、そのあと少し間が空いたりすると、それらが胃の腑に落ちてしまう。
で、メインが来たときには、最初の空腹感は一掃されている。

先にパンが来て、それがとても美味しかった場合、無謀にもおかわりなどしたくなり、年をとってからは、それだけでお腹が一杯、ということすらある。
悔しい。

なら、最初のものを加減すればいいのだが、よほど口に合わないとかでないと残せないのだ。
器にまだ残っている状態で、下げてもらうということが、何か申し訳ないような気になってしまう。

実際は、中身が残っていれば、お店の人は下げずに残しておいたまま、次の料理を運んで来てくれる。
だが、数名で食しているとき、他の人はひとつひとつ下げては次が来るのに、私のところだけ食べかけのものが残されていて、たくさんの器で場所が封じられていくのは、なんとも恥ずかしい。

でも。
私は、最初のものでお腹が一杯になってしまうのが嫌なだけでなく・・・
いろんなものを、かわりばんこに食べたい!
私は、片付け食いが嫌いなのである。

だから、ひとつひとつ順番でなく、全部いっぺんに持って来てもらいたい。
全部を視界に収め、心の中で、好みに基づいた優先順位が自然につけられ、段取りがなされる。

あれをひと口食べ、ご飯を食べ、汁を吸い、それをひと口食べ、またご飯を食べる。
そうやって、バランスをとりながら、汁とご飯とすべてのおかずが、同時に終わるのが、私にとって最も望ましい食べ方である。

段取りの時点で、温かいものは温かいうちに、冷たいものは後回しで良い、という配慮も自然にされている。
でも、できるだけそれらを交互に食べたい。
最初に冷たいものだけ出され、それを済ませてから、後から温かいものだけ次々と運ばれるよりも。

夫がいたときは、きちんと前菜から出していた。
順番にうるさかった人だから、私はまかない料理を食べて、夫の食べ具合のタイミングを見て、次を出した。

でも今は、自宅で友人に食事をふるまうときは、冷たいものや冷めてもいいものは最初に出すが、早いうちに残りの温かい料理も並べてしまう。
温かいものは温かいうちに食べてもらいたいが、やっぱり満遍なく手をつけて欲しいと思ってしまう。

一皿ずつ出しているのならわかるが、ほぼ同時にいく品も並んでいるのに、ひとつひとつ片付け食いされると、それは食事を味わっているのではなく、何か処理をしているような、この皿は終わり、次はこの鉢の番だというような作業をしていると感じられて、なんとなくがっかりしてしまうのだ。

つまりは、自分が食べるときも、ひとさまにふるまうときも、私は、すべての料理が同時に果てる食べ方を望む。

カツ丼もチョコレートパフェも、私は縦に食べる。
けして上のほうから食べていくことはしない。
カツとご飯、生クリームとコーンフレーク、すべてが同時に果てないと、なにか損した気がする。

人それぞれ、好みも習慣も違う。
わかっているのに。
でも、わかっていても、どうしても容認できないこと、合わせられないこともある。

私は片付け食いが嫌い。
私を片付けられるのも嫌い。

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# by kazematic-night | 2018-09-19 19:14 | 日常 | Trackback | Comments(5)
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写真は記事とは関係ない(^^;)

去年のお彼岸は泣いて過ごした。
今年は、大丈夫、だと思う。
兄が「辞めろ、辞めろ」と言っていた会社を、辞めたことが大きい。

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浄土真宗は、彼岸だからといって、特にどうこうということはない。

此岸に戻ってくるということはなく、常に阿弥陀様とともにこの世を観て加護に奔走している、ということだ。

私は、信仰がないので、そう言われたら、はーんと言って受け入れる。
嘘だとか真だとか裁定することに興味はない。
ただ、その宗派ならではの「常識」ゆえに、余分なお金のかかるものでなくて良かったなぁと思う。
その点は、本当にありがたい。

仏教は宗教よりも「哲学」として、非常に興味深い。
私はキリスト教も好きだが、これも宗教としてではなく、「物語」として惹かれている。
信者のかたには申し訳ないが、私の中でキリスト教は、ギリシャ・ローマ神話と同位置にある。

去年の今頃、ある役者さんがステージ4からの癌を克服したというニューストピを見た。
生きているということは、もうそれだけで素晴らしい。
良かった、と思った。

彼が受けた陽子線治療のことは知っていた。
その照射だけで288万かかるということも。

おカネで買えないものが、たくさんあると言われる。
たしかに、それはそうかもしれない。
おカネがあっても、幸せだと感じられない暮らしもきっとあるのだろう。

兄の癌の転移がわかったとき、抗がん剤治療をしなければ、余命は月単位になりますと医師に言われた。
そう言われてしまったら、「いいえ、しません」とは言えない。

「ただし、効果があるのは10%くらいの患者です。そして副作用もあります。副作用がつらくて、途中でやめる人がかなりたくさんいます。最後まで続けられるのは3分の1くらいです。」とも言われた。

選択肢がそれしかなかったわけではない。

「この病院での『保険内での治療』はそれしかありません。別の病院で高度な治療を受けることを希望されるなら、遠慮なく言ってください。資料と紹介状はすぐに用意します。」

そのとき、調べたのだ。
陽子線治療というものを。
その値段を。

そして、その選択肢は、無理だとわかった。
結果として、兄は90%のほうに入り、効果はなく、副作用だけがあって、30キロも体重を落とした。
歩けなくなって、私が引き取った。
最終的には、その抗がん剤治療もやめた。
そうして、死んでしまった。

入院費や通院費を含めて、300万以上のカネがあれば、兄はその役者さんのように、今も生きていたかもしれない。
一緒に「ひよっこ」を視て泣き、「直虎」の最後まで見て、正月の「箱根駅伝」に声援を送り、「西郷どん」にケチをつけたかもしれない。

私は。
命もおカネで買える時代になったと思う。

もうかなり前になるけれども、ある女性タレントや女性議員が、海外で貸し腹によって子供を得たという話題があった。
私は、そのときも思った。
ああ、我が子さえ、カネで買えるのだなと。


生か死か、どちらかを選択するときに、いまは、おカネの有無が左右する。
カネがあれば生きられるが、なければ死ぬ。

去年の彼岸、線香をあげて、おはぎを供えて、「ごめんね、ごめんね。」と泣いた。
おカネがなくてごめんね。
助けてあげられなくて。
むざむざ死なせてしまって。

私は、借金すべきだったのかな。
消費者金融とか行くべきだったのかな。
それで、兄の命を買うべきだったのだろうか。
兄は、私に負担をかけることを望んでいなかったけれども。

週末は、母の老健に行く。
母の好きなものをこしらえてお弁当にして、一緒にお昼ご飯を食べる予定。
けれど、母が、高額な治療しか残されていないとなったとき、私はまた、母を死なせることになる。
母はまだ高齢だから(感情的にはそういう割り切りはできないけれど)としても、兄は、まだうんと若かったのだ。

命があったら、健康を取り戻せたら、たくさんたくさんやりたいことがあったのだ。
実家の困窮のため、中学生の頃から新聞配達をしていた。
後妻の母にできた妹の私が、大学に行くのに遠慮したらいけないからと、一度働いてから、大学に行った。
父の介護も、血のつながらない母のそれも、身を粉にしてやった。

努力が足りなかったからとか言われたくない。
運命だとか、因果応報だとか言う人がいたら、ぶっ殺す。

神さまは、いないと思う。
おカネで買えないものもあるかもしれないけれど、私はおカネで買える幸せが欲しかった。
おカネで、子供も、兄の命も買いたかった。

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握り締め 我が手に残ったものよりも こぼれ落ちたる砂を愛しむ」


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# by kazematic-night | 2018-09-18 22:09 | 過去 | Trackback | Comments(0)

ここではないどこか

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スマホからだとどんなふうに投稿されるのかわからない。
以前にエキブロだったときは、ガラケーだったから。

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どこへ行きたいというのは、もうあまりない。

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日常でなければ、それでいい。
たぶん。
はじめてひとりで夜行列車に乗った日から、私のそれは変わっていない。
旅、ではなくて、逃避。

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逃げても逃げても、どうしても逃げられないものと戦ってきた。
勝ち負けはわからない。
結果、兄を死なせたのだから、負けたのかもしれない。

などということを考えちゃいけないと、医師には言われた。

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まあとにかく、今月は休もう、遊ぼうと決めたのだ。

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自分に大盤振る舞い。

来月から、また一生懸命働いて、つましく暮らそう。

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ハレはハレ。
ケはケ。

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父と兄を送ったとはいえ、まだ母がいるもんな。
親より先に逝ったらいけないもんな。

逃げられないものと戦うための、今日は逃亡。

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# by kazematic-night | 2018-09-17 22:42 | 日常 | Trackback | Comments(0)

優しさ不信

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産婦人科病棟の待合室では、ときどき涙目の女がいる。

そういう人にハンカチを差し出したことがある。

本当は、見ず知らずのその女性を抱きしめたかったのだが。

いや、抱きしめられたかったのか。


生と死の、その寿ぎと絶望がこれほど混在するところはない、と。

産婦人科の待合室。

世の中にある残酷な場所のひとつと思う。

なぜ、せめて、待合室だけでも、産科と婦人科を隔ててくれぬものかと。


そこには、かなりの割合で、優しい家族が登場する。

妊婦につきそった夫と母親、ときに姉妹、ときに上の子供、ときに父親さえも。

一族あげて喜ばしいのはわかる。

心配なのもわかる。

でも。

待合室の椅子には限りがある。


昨今の医療事情で、私の住む町の産婦人科と小児科の開業医は、その多くを閉じた。

だから、総合病院に残されたその産婦人科と小児科は、恐ろしいほど混雑している。

椅子は、早い者勝ち。

ひとりの妊婦を囲んで、一族の明るい輪がある。


その傍らに、座る場所を得られずに、立って待っている妊婦さんや、顔色の良くない、または泣き出しそうな患者さんの姿がある。

個々の事情は知らない。

でも、病院は本来、病の治療に来るところ。

どこかに痛みを抱えて、必死に立って待っている人がいる。


私は、薬をもらいに来ただけだから、痛くて訪れた人より、当然体調は悪くない。

席を立ち、青い顔をして下腹部に手を当てる人にそこを示した。

涙目の女は、すべて過去の、そして今の自分に重なる。

そして、スマホをかけるふりをして、しばしその場を離れた。


ものすごくむかついていた。

夫や母親に付き添われる妊婦さんは、嬉しいだろう。

心強いと思う。

その妊婦さんにとって、夫や母親は、とても優しい。

母親はともかく、夫が仕事を休んでつきそってくれたのだとしたら、その妻にとっては誰かに自慢したいくらい優しい夫なのかもしれない。

いや、いまどきは、それがあたりまえなのか?

そんな光景は、まったく珍しくない。

でも。


身重の妻を労わることに夢中で、他の妊婦さんや、痛みをこらえて立っている患者さんのことは目に入らないとしたら、また気づいてもどうとも感じなかったとしたら、その夫は、本当に優しいのだろうか?


コンカツ中の女性に求める男性の資質を問うと、ほとんど「優しい人」と言う。

これは、私たちの頃、いやもっと昔からたぶん変わっていない。

女は、優しい男が好きなのだ。

優しくされたいのだ。

その意味で、妊婦を囲んだ明るい一族の中の夫は、間違いなく、その妻の要望を叶えていると言えるかもしれない。

彼は妻にとって、このうえなく優しい。

だが。

私は、少しは嫉妬があるにせよ、このよその亭主を蹴飛ばしたいと思っていた。


誰にでも優しい人がいる。

自分の妻にも優しいが、よその女性にも優しい。

それはイヤだという妻がいる。

私にだけ優しくしてほしい、という女性だ。

こういう女も、私は蹴飛ばしたいと思っている。


優しさってなんだろう?

もしも、自分の身内にも他人にもすべてに優しいと自他ともに認められるような人がいたとして、その人は本当に優しい人なのか?

意識しないところで、周囲の気づかないところで、その人の存在自体が、誰かの涙を誘っていることはないのか?

足元に踏んでいる蟻はないのか?


産婦人科に行くと、いつも、このことが頭に浮かぶ。

そして、書かずにいられない。


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「足りないと もういらないを繰り返し 午後の日射しは 緩く翳りぬ」


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# by kazematic-night | 2018-09-15 13:10 | 過去 | Trackback | Comments(4)

中華丼において大切なのは「うずらの卵」だ。

「きくらげ」はどうでもいい。(きくらげ、すまん)

ついでに書くけど、きくらげって、大人になってかなりの間、「海のもの」だと思っていた。

でも、海のくらげ、とはだいぶ違う。

「きくらげ」と耳で聞いただけでは「き」が「木」だと思わず、ましてや「木耳」だとは、誰が想像できようか。

つか、「耳」と文字で見たら、食べられない(^_^;)

ミミンガーも食べたことない。

食べられるのは、パンのミミくらいだが、あれがどうして「耳」なのか未だにわからない。

それを考え始めると、「しょくぱんまん」の耳は、どこなのか、いわゆる食パンのミミにあたる部分がそうだとすると、顔全体を耳がぐるっと覆っていることになる・・・とどうでもいいことにこだわり始めて話が進まない。


で。

「海苔弁」である。

私の海苔弁は、一枚海苔である。

きざみ海苔でも揉み海苔でもない。

味付け海苔もNG。

弁当箱に詰めた炊きたてのご飯の上に、軽く醤油に浸した海苔・・・ご飯の表面積と同じほどの大きさにちぎられた海苔・・・をペタリと貼る。


醤油は接着剤。

おかかは、なくて良い。

私の好みは、おかかなしがいい。

おかかは、ネコの味がする(^_^;)

いや、ネコは食べたことないんだけど。

これは、元夫が言う「スイカはクワガタの味がする」というのとたぶん同じ。

ついでに、私は子供の頃、カメを飼っていたので、エサとして与えていた「しらす干し」はカメの味がする、と感じてしまう(^_^;)


で。

弁当箱の中で、ご飯の熱にやられて(やられてってなんだ?w)、海苔はへたる。

へたる?

へなっと、しなっと、くたっと、なる。(いい表現が見つからぬ。)

あの「へなっと、しなっと、くたっと」が、海苔弁の醍醐味、美味さの主役だと思っている。

へなっとしてご飯に貼りついた海苔は、箸でうまく切ることができない。

せっかく、ご飯の表面積と同じ大きさの海苔にしたのに、食べるときは、面積が一致しない。

ご飯ちょっとに海苔いっぱいなら嬉しいが、ご飯いっぱいに海苔ちょっとという事態が発生してしまうと、とても淋しい。


その淋しさを埋めるのが、おかず、なのである。

といっても、そう手をかけたものでなくていい。

焼いた魚肉ソーセージとか、焦げた卵焼きとかでいい。

むしろ、とかがいい。

主役は海苔とご飯なのである。

子供の頃、母が作った海苔弁、私が詰めた海苔弁。

おかずがないから、海苔弁なのだ。

だから、海苔の裏には醤油をつけてあるのだ。

主役を張れるようなおかずがあれば、むしろご飯は、白いままが良い。

ソースをかけたフライをおかずとして食べるご飯に醤油が染みている、というのは、私としては、なんだかなぁと思うのだ(^_^;)


つまり。

私にとって海苔弁は、おにぎりの贅沢なやつ、と言ってもいい。

アルミホイルが弁当箱に昇格した、というわけだ。

手づかみでなく箸で食べるという点からも、昇格と呼ぶにふさわしい。

でもって、おにぎりも、当然のごとく、コンビニで売られているようなパリパリ「海苔別」はNGであることは言うまでもない。

海苔は、しっとりとへたって、ご飯に貼りついているのが良い。

この曖昧な一体感が、ご飯と海苔のそれぞれの美味しさ+融合された美味しさをもたらすのだ。

そして、海苔弁同様、おにぎりも、ご飯の白いところが見えないほど、全面が海苔で覆われているのが良い。

これぞ、庶民の贅沢であると思う。


ここに、海苔弁の写真を貼りたいと思ったが、これまでお弁当の写真を一枚も撮ったことがないのに気づいた。

だいたい、お弁当をつくっているときは朝の忙しい時間帯で、撮ることはすっとんでいる(^^;)


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# by kazematic-night | 2018-09-15 11:49 | 日常 | Trackback | Comments(0)

孤力

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「孤力」こりょくと読むことにしている。

狐力ではない。
狐力だと、化かす能力のような感じがする。
いや、油揚げを盗む能力か。
しかし、狐が油揚げを食べている図は、見たことがない。

「孤力」なんて言葉があるか知らない。
私が勝手につくったのかもしれない。
孤独に耐える力。
孤独を求める力。
孤独を楽しむ力。
そんな感じ。

初めて一人旅をしたのは、15の夜だ。
尾崎豊は、まだその曲を書いていない。

子供の頃から、なにごともひとりでやる暮らしがあった。
親はもちろん、ひとさまの手を煩わせてはならないと思い決めていた。
ひとりでできない、やろうとしない同級生を見ると、こっそりと蔑んだ。
しかし、その裏側に確実にあった憧憬と羨望は、嫉妬と名を変えて、自分自身を蔑んだ。

いつしか、ひとりでやらなくても済むようなときでも、ひとりを求めるようになった。
どんなときでも、ひとりになりたい、が私の最大の望みとなった。

ひとりで、飲んだり食べたりしていると、淋しい人だと思われるのかもしれない。
一緒に行ってくれる友達がいないのかと思われる。
でも、私は、実家や嫁いだ家でも家庭的には恵まれているとは言えなかったが、友達には恵まれている。
けれど、どんなにいい友達も、いつも一緒にいたいとは思わない。


政治や行政の不備をごまかすためか、世間は「家族、家族」「絆、絆」とかまびすしい。
人との繋がりは確かに大切だが、政府にもマスコミにもそればかりを説かれると、いささかげんなりする。

旅に出て思うのは、表通りの観光スポットしか見ないでは、その街を見たことにならないということだ。
裏通りの小汚い日常も見て、初めてその街の良さがわかる。
ひとりがあって、ふたりの楽しさもわかる。
独りではどうしてもできないことがあるとわかるためにも、「孤力」は必要。

と言いつつも、昨日は辞めた会社の友人と飲み。写真は撮り忘れ。

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今日は、同じマンションの介護愚痴仲間とランチ。
退職したらやりたいと思っていたことを、着々と実行中。
おかげで、おカネがない(^^;)

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「ときどきは 前向きな君がつらくなる 振り向くばかりの私を見ないで」

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# by kazematic-night | 2018-09-14 21:48 | 日常 | Trackback | Comments(0)

たまごやき

ある小説を読み終わった。

好きな作家のもので、私は一旦作家が気に入ると、そのすべての作品を読み漁る傾向にある。

だから、好きな作家にはやたら詳しいが、興味のない作家や作品は、それが世間でどんなに高い評判を呼んでいようが、手に取ることもしない。

名前は知っているけど、一冊も読んでないというのが多い。


その作家は、たぶん30代の男性。

若い。


小説は、彼の作品群の中では、あまり精彩のあるものには感じなかったが、読んで損したというほどのものでもない。

人としてどうか、みたいなものを問うラストに感動するかたもおられるだろう。

でも。

私は、途中から、つまらないことが気になってしかたがなかった。


それはたまごやき。


主人公(ではないが、章ごとの語り手として)は、若い男性。

不本意に亡くなった恋人の復讐のために、ある女性を利用する。

利用される女性は、そうとも知らず、彼を想い、彼に尽くす。

ふたりのある日常。

復讐のターゲットの情報を得るため、不意に彼女の部屋を訪ねた彼を、彼女は歓迎する。

疲れて帰宅したのに、彼のためにいそいそと台所に立つ。


小説は、男目線で表現していた。

小説の文章はこうではないが、内容はこんな感じ。


彼女は、オレのためにたまごやきを作ってくれた。

オレの好きなだし巻きたまごだ。


男性の生い立ちは、最後まで語られない。

どんな家庭環境で育ったのか、何もわからない。


でも。

私は、ははぁ、と思ったのだ。

この男の中では、たまごやきといえば、だし巻きたまごなんだな。

つまり、この作家もそうなのかもしれないな。


だし巻きたまごが、どんな印象をもたらすかは、その人それぞれと思う。

地域、年代、家庭環境、好み、いろんなものが混在して「その人のたまごやき」のイメージを形成しているのだろう。


だから。

これは、私だけの偏見に満ちたイメージ。


だし巻きたまごは、上等な食べ物である(^_^;)


我が家のたまごやきは、夫がいたときはだし巻きたまご。

きれいな黄色にふんわり仕上げて、けして焦がしたりしてはならない。

できれば中は半熟後期くらいに仕上げたい。

そそっかしくてすぐに焦がしてしまう私は、フライパンの前を絶対離れない。

来客に出すときも、同様だ。


私ひとりのときは、砂糖醤油を入れてわざと焦がしたたまごやきだ。

この焦げたところが美味しい、と私は思っている。

焼きすぎても全然かまわない。

だから、平気で前を離れ、洗い物をしたり、他の料理を作ったりする。


これは、母のたまごやき。

母も、仕事の合間に、たくさんのことを同時進行しながら、たまごを焼いた。

だから、びっくりするほど焦げていることがよくあった。


小説の中の、利用される女性が自分だけのために焼くたまごやきはどんなだろう?

恋人にふるまうそれと同じものなんだろうか。

そうだとしたら、この作家、やはり若い男なんだなぁと思う。

いや、そうなんだけど。


もちろん、そんな記述はないし、必要もない私の勝手な想像だが。


男性が、たまごやきといえばだし巻きたまご、とイメージする男である、ということが、そのあとずっと尾を引いた。

そういう人なんだな、そういうたまごやきを食べて育った人。


結局、この男性は、復讐を成し遂げることができない。

恋人のふりをして利用した女性を、裏切ることができなかった。

モトカノに心で詫びながら、だし巻きたまごを焼いてくれた女性を抱きしめる。

いい人なのである。

いい人であることと、たまごやきは何の関係もない。

ないけれど。



衣食住足りて礼節を知る、という言葉が私は好きじゃない。

足りていない人の中には、足りていなくてもいいと思って足らす努力を放棄している人と、なんとか足りたいと努力しながらもどうしても足りない暮らしから抜けられない人がいる。


物質的に満たされてこそ、誰かを思いやる余裕が生まれるということに、うなづく部分もあるし、満たされなくても思いやりも礼節も知っている人もいるはずと反発する心もある。


それと、たまごやきと、やっぱり何の関係もないけれど。


いつか。

いつか、母がいなくなったら。

私は、自分でこのたまごやきを焼くたび、泣いてしまいそうな気がする。

泣きながら焦がし、焼き上げては、泣きながら食べ、それでも美味しいと、ひとりごとを言う、そんな老人になりそうな予感がある。

喜びも哀しみも、日々の暮らしのあらゆるものに宿り、泡沫のごとく消えては生まれる。


※写真は、私の日本では一番好きな画家、鴨居玲の絵葉書。郷里に行ったときには、必ず美術館に寄る。


「幸せを 測る秤のなきことを 幸せと思い 今日を生き抜く」


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# by kazematic-night | 2018-09-14 10:17 | 過去 | Trackback | Comments(0)

永遠の20%

突然、すごく恋したくなることがあるんだ。

家庭に不満があるわけじゃない。

だけど、何かが足りない、って思うことが。


男の人って、みんな同じことを言うのね。


みんな、って、他の人にも言われたことがあるの?


さあ、どうだったかしら。


100%満足してるんだ、今の生活。

だけど、ときどき120%がほしくなる。


残りの20%は、どうやったら満たされるの?


さあ、なんだろ。


きっとね。

何をしても、誰に恋しても、満たされないと思うわ。

その20%は、永遠の20%なのよ。


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友人のブログにこんな記述があって、ひどく共感した。

「目の前にある多くの選択肢のうち、捨てると決めたものも多数ある。「拾う」と決めたものまで諦めるようなことはしたくない。」


拾うために捨てたものがある。

それは、私でない人には、逆の価値を持つものだったかもしれない。

私が捨てたものを得るために、私が拾おうとしたものを捨てる人たちも、少なくはない。

私もまた、誰かが捨てたいと思っているものを躍起になって求めてきたのかもしれない。

ないものねだり、と言い捨ててしまえばそれまで。

手にあるものの幸せに目を向けよと、他人さまは仰る。


けれど。

もっとこうしたい。

いつかこうありたい。

そう思わなくなったら、終わりである。

人をやっている甲斐がない。

捨ててきたものをときに惜しみ、手に入らないものに焦れる。

私は、それでよい。


だからせめて、日々いくつもの決断を重ねて、捨てたものの代わりに拾うと決めたものは、やっぱり拾いたいのだ。


上記の会話文は、数年前に、実際に交わしたもの。

交わした相手は、私が与えることのできないものを、私に求めた。

けれど、私は感じて、いや、わかっていたのだ。

万にひとつ、それを私が与えられても、彼の欠乏感は埋まることなしに、また違う場所で欠けた20%を求めるだろうと。


そのときの私は、20%どころじゃなく、私の人生には80も90もの何かが欠けていると感じていた。

そして、20%で済む相手に、確かに嫉妬していた。

その贅沢さに腹を立てた。

あなたは何もひきかえにすることなく、まだ何かを欲しいというのか。


おそらくは。

人は誰しも、心の深いところで渇望の根を抱えているのではないかと思う。

そして、何かが足りない、というその「何か」を知り得ぬまま、死ぬのだろう。

しかし、欠けたまま転がるビッグオーの人生も悪くない。


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# by kazematic-night | 2018-09-13 09:27 | 過去 | Trackback | Comments(2)

おふじさん

「ちょいとおまえさん、さっきから何を覗き込んでおいでだい?」
呼びかけられた男は返事をしない。
女房の声など耳に入らないくらい夢中なのだ。

男の名はわからない。
切れ長の目が涼しげな案外の優男で、なんとか言う役者に似ていると思ったが、それも思い出せない。
月代にしているのは、どこかに仕官でもしているのだろうか。
だが、合戦続きの戦乱の世でもないのに、あまりにつるりとしたその部分が、バックに見える一間きりのボロ長屋の風情にはどうも似つかわしくないように思えて、私も男の顔を覗き込んだ。
こんな長屋には、髪をポニーテール(?)にした痩せ浪人でござい、というなりがふさわしい。
いったい何者なんだ、こいつ。

すると、男は、びっくりしたようにのけぞった。
どうやら、こいつ何者なんだと思ったのは、男も同じらしい。
金魚のように口をぱくぱくさせているのが、その男前の顔にこれまた似合わなくて、後ろに回って背中でもさすりながらなだめたい気分になった。

そんなに驚くことないよ。
これは、夢なんだから。


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「おまえさん、おまえさん!」
女が呼んでいる。
「お、お、おふじ、ちょっとこっち来て、おまえもこれを見てみろ。」

おふじと呼ばれた女が近づいて、PCのモニターを覗き込んだ。
ひえ~!
今度は、こっちが腰を抜かす番だ。

おふじはアニメだった!
肉も骨もないぺらぺらの身体を、風に揺れる短冊のように揺らしているのは、彼女なりのシナなのか知らないが、かの時代にこんなアニメが普及していたなら、それなりに殿方の人気を集めたかとも思える色っぽさを持っていた。

しかし、おふじは驚いていなかった。
へぇ~、面白いもんじゃないか~
この板の向こうに、こんな女が住んでいるのかい?
この女のいる世界に、こっから繋がっているのかい?
と、振り向かずに男に訊いた。

男が答えないので、というか、たぶん口をぱくぱくしていて声が出ないのだと思うが、おふじは、腰を抜かしている私に話しかけてきた。
「ねぇ、あんた、これはいったいなんなんだい?」

これは・・・。
パソコンというものです・・・。
あなたの見ているモニターという板に私と私のいる世界が映り、私の見ているモニターにあなたが映っているんです・・・。

と、口に出して答えなかったのに、おふじは、深くうなづいて、
「へぇ~、そいつぁ面白いねぇ~。そうなのかい・・・。」
としみじみと納得した。

そして、着崩した縞の着物の袖から、白い腕をにゅうと出してモニターに触れた。
ということは、本来なら、私の見ている画面が彼女の手のひらに覆われたはずなのだが、そこはよくしたもので、いつのまにか私の視線は長屋の低い天井あたりにあって、そっちの世界からおふじを見ているのだった。
ぺらぺらのアニメのおふじは、裏側はちゃんと背中になっていて、帯もぺたんと結ばれていた。

すると、おふじの腕は、そのまま何の抵抗もなくモニターに吸い込まれた。
平面対平面だから、これはちっとも違和感がない。
腕から身体へ足へと、するするとモニターに飲み込まれていった。
「おふじ!おふじ!」
と優男が叫んでいた。

優男が叫んだところで目が覚めたので、オチはない。



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先日、豪雨の中を歩いていたら、和服を召した女性とすれ違った。

裾がじっとりと濡れているのを見て大変だなと思いながら、ふと、こっち側に来たはずのおふじさんは、立体としての肉体を得られただろうかと気になった。
あのぺらぺらは、目立ちすぎる。


【おまけ】
「べいちょうかいだん」という音だけがテレビから聞こえてきて、脳内で「米朝怪談」と変換され、あら、亡くなった米朝師匠は怪談噺もされたのねと思っていたら、アメリカとキタとの話だったので、ひとりで苦笑いした。

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# by kazematic-night | 2018-09-12 16:31 | 日常 | Trackback | Comments(0)

フランス語で「Poisson d'avril」は四月の魚、四月馬鹿のこと。日々のどうでもいいような話の置き所。過去の非公開ブログから適当に集約して移行中。可能な限りオンタイム更新もしたい。


by 風待ち