内心ではキレている

これから、暴言を書く。
中傷に当たるかもしれない。
私は、そういう人間だし、ここは私のストレス発散の場だから。

今月から、隣席に新しいスタッフがやってきた。
50歳くらいに見えるが、もしかしたらもう少し若いかもしれない。
男性。

私も含めて、中高年は即戦力として雇われる。
それまでの経験や能力を加味しての報酬だと思う。
そこをアピールして雇用されたのだし、アピールした分以上の仕事はしたいと思っている。

それが。
この男、どういう経歴でどういうアピールをしたのか知らないが、仕事が超できない。
ひとのことなど言えた義理ではない私が言うのだから、想像を絶するほどできない。

ここを見てくださっているかたは、ブログを書かれているので、私の怒りをある程度はわかってくださると思うが、こやつ、3行(中身じゃなく単に行の)挿入するのに3時間かかった。
ジーッとディスプレイを見つめて固まっている。
2度訊かれて、いやいやながら努めて愛想良く教えたつもりなのだが、結果として3時間。
あげくにその直前まで3時間かけてやっていた(普通、1時間かからずに終わる内容)入力のデータをすべて消してしまうという、わけのわからないオチ付き。
もしかして、私と同じ報酬なの?
もうキレそうである。

で。
申し訳ないが、クサイ。
不潔というわけではないのだが、とにかくクサイ。
それで、隣の席で、なんか私のほうに身体を向けて、机に斜めになってやっている。

しかも。
私は忙しいのに(誰のせいだよ!)、自分の近況なんかをやたらに話しかける。
勘弁してほしい。
ほとんど聞いてないけど、それでも集中力が途切れる。
非常に迷惑。

懸命に「話しかけないでオーラ」を出しているつもりなのだが、まったく通用しない。
退社時に、走って同じエレベータに乗り込み、なんか食事とか誘いたい様子。
気持ち悪くて吐きそうである。

この忙しさが一段落したら、また転職をするかもしれない。

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あまりに落ち込んでしまったので、帰宅途中で一人でビール。
行き付けの店で、カウンターで店主と話すことが多いのだが、今日は半個室のテーブル席。
誰とも話したくない(^^;)
でも、新酒のビールをちょこっとサービスしてもらった。
ちょっとご機嫌直る。

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# by kazematic-night | 2018-11-15 22:04 | 日常 | Trackback | Comments(2)

キライの一致

同好会というものがある。
花を育てるのが好き、見に行くのが好き、野球をするのが好き、観戦するのが好き、映画が好き、小説が好き、美味しいものを作るのが好き、食べ歩くのが好き・・・etc.

好きな人同士が集まると、その話題で盛り上がる。
それほど親しくなかった人が、好きなものが共通しているとわかると、これから仲良くなれるかもしれないと思う。

ある友人が言った。
だけど私は思うのよ。
好きの一致より、キライの一致のほうが大事だって。

どうしても譲れないことがある。
どうしてもゆるせないことがある。
傍からみれば、そんなささいなこと、と思うかもしれない。
そんな取るに足らないことにこだわるなんておかしいわ。

でも。
きっとそれは理屈じゃなくて。
心の奥の深いところで、それは嫌なのよ、と自分の根っこがつぶやく。
ひとさまのことは言えないし、批判ができるほど自分もちゃんとしていないから、きちんと説明することなんてできない。
だから、誰かを説得しようとかなどとも思わないし、その必要もない。
でも、感じてしまった嫌悪感は、どうしても消せない。

そうして、そういう嫌悪感は、むやみやたらに表明するのが憚られる。
キライは否定や非難のニュアンスをたっぷりと含んでいるから、もしもそれが好きな人が見聞きしたら、たぶん不快になる。
現実生活では、嫌だなぁと思っても、なかなか言えない。
本当は言いたくてたまらないことをグッと飲み込む。
そして、こっそりとイライラするのだ。

言うに憚られることを、おずおずと言ってみるのは、溜まったイライラを吐きだしたいというのと同時に、誰かに「私も」と言って欲しいからだ。
私も、それがキライだったのよ。
言いたかったのよ。
よく、言ってくれたわ。
そんなふうに共感されたら、「キライ」という負の感覚をひとさまにさらした自己嫌悪が、すこしやわらぐ。
私の醜さ、カッコ悪さが、ちょっと緩和されるような気になれる。
ああ、あれがキライなのは、私だけじゃなかったのね、って。

友人の言葉を聞いて、私は思った。
そうか、そうだよね。
好きの一致が嗜好の一致であるとしたら、キライの一致は価値観や感性の一致に近くはないか。

そうして、もちろん例外は多々あるだろうけれども、「好き」よりも「キライ」のほうが不変ではないか。
好きなものには飽きて、しだいにどうでもいいものになっていく可能性がある。
もしかしたら、キライになってしまうことだってある。

けれども、キライなものが、どうでもよくはなっても、一転して好きになるということは、少ないのではないか。
食べ物の好き嫌いなどはあるけれども、それは価値観でなく嗜好の変化。
人は、嗜好は変化しても、価値観と感性は、なかなかに変わりにくい。

若い頃は、「好き」の一致で友を作った。
けれど、学生時代の友人の多くは、就職や結婚や出産や帰省、そういう環境の変化で、好きなものを好きなままにしてそれに携われることが難しくなっている。
あれほど映画が好きだったのに、子供ができてから1本も見ていないわ、という友人もいた。
子育てが終わると4人の親の介護だ。
彼女は、独身を謳歌している別の友人が、嬉々として映画ブログを書いているのを、ちっとも読む気がしない、と言った。
こっそりと言った。

これは嫉妬。
私もたくさんする。
嫉妬は、やっぱりカッコ悪い。
だけど。
それがありのままの心の動きならば、無理をして、今でも映画が好きなふりをすることはない。

そして、私に、夫への不満や義親の介護の愚痴をおずおずと語った。
こんなところがゆるせないんだ。
これだけはゆずれないのよ。

そこに私は共感する。
そうそう、私もだよ。
醜さもカッコ悪さも、親への冷淡さも、あなただけじゃないよ。
だって、ヤツラのこういうところがむかつくじゃん。

「キライの一致」
それは、価値観と感性の一致。
だから、嬉しい。
好きなものが一致したときより嬉しい。

年を重ねるにつれて、新たな友人関係が芽生え、古い友人と疎遠になったりする。
古い友人でも、交流が残っているのは、嗜好が一致する人ではなく、価値観が共通している人だ。
つまりは、キライの一致。
だから私は、ネットでは、堂々と、こういうものがキライと書く。
それは、もしかしたら、価値観の共通している人を見つけたいという、人恋しさの裏返しであるかもしれない。

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だいじょぶか? と問う友の優しさ 問わない友の優しさ」

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# by kazematic-night | 2018-11-14 20:15 | 日常 | Trackback | Comments(4)
ゴミと資源と費用の三方の削減のためか、いろんなものの「詰め替え用」が出ている。
シャンプーとか、洗剤とか、調味料とか。
私も、よく使っている。
最近はオシャレなボトルもあるけれど、私は商品名があからさまになっているのが好きじゃないので、自分で選んだボトル(ほぼ100均)に詰め替え用を入れている。

詰め替え用は、袋に切れ目が入っている。
そして「手で切れます」と書いてある。

うちのお風呂には、ハサミが置いてない。
大抵の家は、そうだと思う。
ハサミが剥き出しに置いてあるお風呂があったら、なんとなく怖い(^_^;)
それに、錆びるでしょ?

洗う段になって、ボディソープの残りが少ないと気づく。
自分が今使う分はあるのだが、次のときに空っぽなのは嫌だ。
なら、お風呂から出てから入れ替えればいい。
今、そこでする必要はない。
が。

したい(^^;)

詰め替え用の袋は、お風呂場の棚に置いてある。
だから、すぐに詰め替えられる。
なのにしないのは、なんか心残りなのだ。

さらに、最後のひとしずくまで入れたい。
さらに、空っぽの袋にお湯を入れてジャブジャブ振って、それで洗いたい(笑

本当は、お風呂に入る前に詰め替えておけばいいのだが、袋にお湯ジャブジャブしたい思いがあるので、どうしても入浴中にやってしまう。
で。
詰め使え用の袋の口を手で切る。

ところが、こいつ、切れないことがある!(怒
お風呂では裸だ。
身体は濡れているが、袋ジャブジャブ分で洗おうと思っているので、身体は洗っていないままだ。
これでお風呂終わり、というわけにはいかない。

洗いもせず、よく拭きもせず、裸にバスタオルをとりあえず巻くという中途半端なままで、キッチンかリビングにハサミを取りに行く。
たまに、しずくが垂れて床が濡れる(^_^;)
と、自分が濡らしたのにムカツク。
何に?
手で切れますと書いてあるのに、切れない袋の口にである。
詐欺だ!と思う(笑

先日、お風呂でシャンプーの詰め替えをやった。
なかなか切れない・・・。
ちょっとは切れたのだが、全部切らないと、出口が狭すぎて出が悪い。
なかなか容器に入っていかない。
それで、もっと切りたいと力を込めた。

たぶん、切り取り線?が端まで入ってなかったか、甘かったのだろう。
どうしても切れない。
ハサミを取りに行くのは面倒くさい。
裸だし、寒いし、床が濡れる。
指先に思い切り力を込めた。

すると。
あろうことか、注ぎ口ではなくて、そこから縦に袋が裂けたのだ!
もう思いっきり底までですよ。
どくどくと流れ出るシャンプー(泣

手でよそって、容器に入れようかと思ったが、床の雑菌とか?が混ざったらまずいと思い、とりあえずつけられるだけ、自分の頭につけた。
自分の頭には雑菌がついてもいいのか?(^^;)

かろうじて袋に残った1/3ほどを容器に入れ、床に流れ出た1/3ほどを必死に頭に乗せ、1/3はあきらめた。
掬い切れなかった分、床に頭をすりつけて、髪で直に掬い取りたいが、すでに私の髪はシャンプー満タン。
近くに誰かいたら(いるわけないけど)、その人の頭にも乗せたかった。

なんたって、詰め替え用の1/3ですから。
手でぶくぶくすると、そりゃあもうすごい泡。
しかも濃厚。
懐かしのアトムの髪型もできる。
でも、全然楽しくないっ!
ああ、もったいないシャンプー・・・

それにつけても、注ぎ口が切れずに縦に裂けた袋に腹が立つ!
手で切れないこともあります、と書くのが正しい、と思う(笑

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# by kazematic-night | 2018-11-13 22:59 | 日常 | Trackback | Comments(3)

手で開けられません

味噌の蓋の下のアルミ紙みたいなのが剥がれない。
それから、豆腐のパックのビニールみたいなやつ。
いかにも、ここから剥がせます、みたいにつまめるだけの余白を設けておきながら、そこをつまんで引っ張ると、本体無傷で、余白部分だけが切れる。

指に残った、細長いビニールを眺めつつ、なんとか怒りを抑え、別の辺に挑むも、そこも同じ羽目になると、もう3辺目はない。
パックと豆腐の境目に、包丁をぶっ刺し、豆腐に沿ってビニールを切り取る(^_^;)

プリン、ヨーグルト、ヤクルト(に類するもの)、みんなそうだ。
開けられない。
いつも、じゃないが、いつか、いつも、になるであろうと予想される。

ときどき、牛乳やジュースの紙パックもうまく開けられないことがある。
そもそも不器用ということは置いといて(笑)、これって何か構造上の改善点はないのか。
今後、高齢化社会が加速するというのに、こんなに開けられないものばかりでいいのか。

私は思う。
世間に流通する商品、社会を治めるシステム、そのほとんどが、年をとったら「誰かに」助けてもらうことを前提に作られている。
年寄りが独りでできないことは、「誰か」に頼んでやってもらえばいいじゃないの、という意思を感じる。

スーパーや百貨店の売り上げが伸び悩み、コンビニにとって代わられているという現状は、遠くまで買物に行けないということのほかに、調理をするのが億劫であったり、独りや二人分では材料費のほうが高くつくという世帯が増加していることがあると思う。

お一人様用の総菜や安いお弁当など、調理された個食グッズは充実しつつあるのに、それ以外は、ひとさま頼みにしなければ立ち打ちできないというのはどういうわけか。

いずれ歯がなくなったら、わたしゃ、プリンかヨーグルトか豆腐で命を繋ぐかもしれぬ。
でも、このままじゃ、どれも開けられない。

味噌の蓋が開かないので、インスタントの味噌汁を買うと仮定する。
母も、実家にいたときはそうだった。
しかし。
あの生味噌が入ったビニールの袋が、手では開けられない。
だから、ハサミで切って開ける。
父がいなくなってから、実家にはあちこちにハサミが置いてあった。
地震が来て、ものが落ちて床に散らばったら、非常に危ない。

母には、できるだけ刃物は持たせたくなかった。
でも、豆腐が食べたいと思ったら、私と同じように、パックに包丁をぶっ刺すしかないのが現実だった。

醤油やみりんやサラダ油のプルトップ。
缶ジュースなどは言わずもがな。
缶切り不要の缶詰は、今の私には便利だが、高齢になったら開けられまい。
家でひとりでワインやビールを飲めるのも今のうちだ(^_^;)

年をとっても、できるだけ自分のことは自分でしたいと、誰もが思っていることだろう。
脳や身体のことを考えても、そのほうが健康的に過ごせると思う。

しかし、実際は、ほんのささいな日常のあれこれが、できなくなるのだ。
いや、工夫をすればできるかもしれない作りが、今はできない作りになっているのだ。

絆とか助け合いとかボランティアとかも大切かもしれないが、ひとさまに助けてもらわなくてもできる道も探ってほしい。
100均で便利グッズを買えばいいでしょというのでは、あまりに企業努力が足りない。

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# by kazematic-night | 2018-11-12 21:03 | 日常 | Trackback | Comments(11)

ただの好き嫌いの話

昔、ブログはうさんくさいものだった。
「オタク」という言葉がいまも生きているか知らないが、いまよりもっとそちら側に近かった印象がある。

ネットだから。顔が見えないから。リアルでの関係がないから。
正直に心の内を吐露する。
そういう人が多かったように思う。

いま、私がリアルでもつきあいを続けている友人たちは、そのほとんどが最初のブログで知り合った。
最初に感情の吐露があり、共感があって、次に背景事情を知る。
そして、どうしてもそれだけでは足らなくなって、リアルで飲み食いをすることになる。
詳しい住まいも電話番号も、本名さえも知らせることなく、知らぬをよしとして、心に浮かぶ澱や、底に溜まった毒に共鳴した。
そうして、何年も過ぎた。

いつの頃だったか、ガス会社かなにかのテレビCMで「ブログに載せます~」みたいなセリフとともに、自宅の食卓前で家族そろって写真を撮っているシーンがあり、愕然とした。
それから、みるみるうちに、ブログはそういうものになっていった。
自分や家族の住まいも名前も、顔さえ明かす。

フェイスブックに実名で登録し、インスタに自撮りを投稿する。
身バレが実生活に及ぼす影響も折り込み済みで、それでも不都合でない無難なものをアップする。
企業や店が宣伝ツールとして使うのと同じように、ある意味、個人の宣伝だ。

そういう視点からみれば、大事なのは、名前を知ってもらうことと、嫌われないことであろう。
ディスプレイの向こう側にいるお客様を敵に回さないこと。

たとえば、選挙演説や討論会で具体的な政策を言いすぎて、いろいろ突っ込まれると面倒だ。
でも、投票用紙に名前は書いてほしいので、とにかく選挙カーは名前の連呼に終始する。
内容的には無難であり、でも知名度を上げ、フォロワーを増やす。
そういう使い方が、ブログでも当たり前になった。

記事も書き手からも、以前ほどのうさんくささは減って、堂々と名乗っても差し支えのないようなものが増えた。
ある意味、健全になったのかもしれない。

でも、そうなってから、私にとって「面白いブログ」は激減した。
是非ではなく、あくまでも私個人の好き嫌いの問題。


書いていなかったら、私は生きていなかったかもしれない、と思う。
また、その時代、実名でしか投稿できないということであったら、書けなかったに違いない。
そうして、10数年もつきあいが続き、再会のたびにハグをして号泣してしまうような友人関係は築けなかっただろう。



広告嫌い、である。
ポスティングの仕事をされているかたには申し訳ないが、私はあのチラシが好きではなくて、自宅の郵便受けに入った広告チラシは、見ないで捨てるか、見たとしても「絶対にここには依頼しないぞ」と決心するだけである。
紙資源を無駄遣いし、私の家のゴミを勝手に増やしたけしからんヤツ、だと思ってしまうから。

ネットのインタレスティング広告も嫌いで、できうる限りオプトアウトにしてある。
調べたいものは、私から調べるし、欲しいものは、私から注文する。
先回りして宣伝されると、まず「逃げる」ことを考えてしまう。
だから、商品を見ていても店員さんが声をかけてこない店が好きだ。
それでいて、必要なときには、いつでもこちらから声がかけやすい雰囲気があればベスト。

つまり、ただでさえ、営業されるのが苦手なのだ。

ブログは、私にとって、一番素になれる場所。
リアルでは言えない本音を正直に書くところ。
その意味で、大切な場所である。
そこに。
そこに、営業されたくない。

だから、お店や会社名がついたブログは見ない。
個人でも、実名っぽいものが入っていたら敬遠する。
プロフの顔写真も同様。
読んでみたら、ものすごくいい文章や記事内容かもしれない。
私は、惜しいことをしているかもしれない。
しかし、例のガス会社のCMのイメージもあって、そこに正直な心情の吐露があり、読んだ私の心が揺さぶられる、とは考えにくい。

そうやって、新着を流していると、タイトルをクリックするのは、すごく少ない確率となる。
時の経過、時代の変遷とともに、どんどん少なくなっている。
そして、好きな文章との出会い、つまりは人との出会いが少なくなっていくのを、残念に思っている。
まあ、私の心が狭量だということ(^^;)

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めちゃくちゃに
  壊れてしまいたい
  と思う一方で
  堅固な
  鎧を着る

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# by kazematic-night | 2018-11-11 23:22 | 日常 | Trackback | Comments(0)

高校2年の冬、祖母が死んだ。
5年余りに及ぶ寝たきりの末に、最期は、あれほど憎んでいた母が誰かもわからなくなり、「すいませんねぇ」と言った。

死んだあと、わずかな遺品を整理していたら、仏壇の引き出しから実の弟に当てたメモのような手紙が出てきた。
「私が死んだら、それは○○(母の名前)に殺されたと思ってください」

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私には大叔父にあたるその弟は葬儀には来なかった。
焼香に訪れたのは、ご近所の幾人かと両親の仕事の知人と兄と私の友人とそのお母様くらいだった。
失礼を承知で言えば、どなたさまも義理で来てくださったわけで、祖母と直接交流のあったような人はひとりもいなかった。

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高齢になってから、ふがいない息子と気に染まぬ嫁に付いて見知らぬ都会に来て、ただひとりとして心を許せる友を得る機会のないまま逝った。
近所でも、その嫁いびりは有名で、なんとなく距離を置かれていたのだろう。

親戚筋のものとは、祖母自身の家出と離婚、そして夜逃げのためか、あえて交流を避けているようなところがある。
唯一の兄弟である弟は、以前祖母が元気な折には上京して東京見物などしたが、姉と時を同じくして病に臥し、葬儀どころか、連絡をするのさえ憚られる病状だった。

そのメモは、たぶん寝たきりになる少し前、痴呆になりかかって、点いたり消えたりしている頃に書かれたものだろう。
点いていたから書いたのか、消えていたから書けたのか。
「すいませんねぇ」
と言ったその言葉は、無論すっかり消えてしまったゆえのものには違いないが、母は泣いた。
そして、あのメモを見つけたとき、母はそっと私にも見せて、今度は薄く笑った。

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葬儀の日は、出かけるときは関東らしい冬晴れだったが、式場に着くと一転して小雨模様となった。
小さなアパートでは、参列者のもてなしが大変だろうからと、落合にある葬祭場を手配したのは兄の友人だ。

参列者の足元が濡れることを気にかけたが、なんのことはない、読経を聴く参列者などいるはずもない式典となった。
深紅から枯れ色になりかかった紅葉が、霧を噴いたように濡れて、最期の化粧をしていた。

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野辺の送りは家族4人で見守った。
電気だから煙は出ないと聞いていたけれど、私たちは透明のビニール傘ごしに、ただ黙って煙突を見ていた。
待っていれば煙が出てくるような気がして、眼をそらすことができなかった。
どうしてだか、煙が出てほしかったのだ。
それぞれが、それぞれの思いを抱いて、みんな煙を待っていたような気がする。

残った骨は、もう骨の形をしておらず、ふたつの箸でつまむと、ぱらぱらと崩れ落ちた。
係りの人がつかめそうなところを指示してくれるのだが、それでもつかめなかった。

私たちは、とりたてて信仰もなく、しきたりなどの常識もなかったから、指先で骨の粉をつまんで壷に入れた。
係員があわててシャベルを貸してくれたが、誰も受け取らなかった。
切りそこなったわずかな爪の間に、祖母の骨が残った。

いい葬儀だった。

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回忌の法要をしなくなって久しいが、今日、その祖母の命日。
薄い雲をゆるした空が優しい。

祖母は、ひとり息子である父と、「坊や」と呼んでいた孫の兄と会えただろうか。
父と兄の骨も、そうすれば良かったと、切ったばかりの爪を見る。

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「トントンと 玉ネギきざんで 泣いてみる 兄が癌だと知らされた日」

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# by kazematic-night | 2018-11-11 09:16 | 過去 | Trackback | Comments(4)

おかど違い

「バラエティー番組」が苦手だ。
定義はと訊かれると答えられないが、「お笑い番組」とは違う気がする。

子供の頃は、学校での話題に合わせるために「ドリフ」を、たまに見た。
プロ野球シーズンは、父がナイターにチャンネルを合わせるので、正直ホッとした。

「欽ちゃん」はそこそこ見た。
「笑点」は、結構よく見た。
それもこれも昔のことで、大人になってからは、「ガハハ」と笑わせる感じのテレビ番組は敬遠しがちだ。

30~40代にかけて、心を失くしていた。
その後、感情が戻ってからも、爆笑を誘うような演出に、どうもついていけない。
「クスッ」という笑いが好み。
だから、ときどきEテレやCS放送でやる落語は、タイミングが合えば見る。
万人が爆笑するようなギャグよりも、「考えオチ」がいい。
「笑い」に関しては、私はひねくれているのかもしれない。

「LIFE」は結構見ていた。
「コント」は好きなようだ。
でも、騒々しいのは苦手。

日曜の夜は、なんだかんだ文句をつけながらも「大河ドラマ」を見ているので、いま、話題になっている「やらせ疑惑」の番組は見ていない。
しかし、お笑いタレントが過激な祭りに挑戦する企画が「やらせ」ではないかと騒いでいるのを聞いて、私は「なにをいまさら」と感じている。
私は、端からそうだと感じていたし、バラエティー番組ってそういうものだと思っている。
はい、ここで川に落ちて。
やり直し。
もっと派手に落ちて。
はい、ここで観衆、笑って、とディレクターが台本を回している。
そういうものでしょう?と。

前に、タレントや俳優が出てくる旅番組が嫌いだと書いた。
企画されたアクシデントみたいなものが、胸糞悪い。
ここは泣かせどころみたいな、ここで泣かないのは人間じゃない、みたいな「感情ファシズム」には、従いたくない思いがある。
だから「泣ける」とか「爆笑」とかを謳い文句にされると、最初から引いてしまう。

もう完全に創りものですということが明らかになっているドラマや映画や小説、作りこめば作りこんだだけ技術や意欲が感じられる「つくりもの」が私はいい

でなければ、展開不明のオンタイムのスポーツ中継。
そのどっちかということになる。

中途半端が嫌なのだ。
オンタイムじゃないのにそうと錯覚させたり、シナリオや根回しができているのに偶然やアクシデントを装って感動を誘おうとしたり。
だから、バラエティー番組は見ない。

嫌なら見なければいいだけの話。
そんなに「やらせ」がゆるせないなら、バラエティー番組は無くせばいいと思う。
私は、嫌いだからそう言う(笑)
でも、なくならない。
それは、みんな、そうと承知で見ているからだ。
私のように「嫌い」「見ない」という偏屈者もいる一方で、それでもかまわないじゃないか、面白ければ、ガハハと笑って日ごろの疲れがとれれば、という視聴者もたくさんいて、その多様性が健全だと思う。

BPO検証とかなんだとか、おかど違いのところで騒いでいるような気がしてならない。

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「尋ねたい 木綿豆腐の冷たさを 何故に知るのか 鍋のどぜうよ」

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# by kazematic-night | 2018-11-10 00:33 | 日常 | Trackback | Comments(8)

痛くて起きられない(^_^;)

腰が痛くて目が覚めた。
起き上がれない(泣)

特に心当たりなし。
椎間板がまた炎症か。
足の付け根まで痛い。

痛くて病院どころじゃない。
まずは薬だ。
でも、寝室から出るのが億劫(^_^;)

これが一人のリスク。
でも、痛みを我慢して家族の世話をしなくてよくなっただけでも、良しとする。

大丈夫じゃないので、大丈夫?と訊かないで欲しい。

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# by kazematic-night | 2018-11-08 07:20 | 日常 | Trackback

友達三昧

昨夜は、友人とサイゼリヤでビール。
毎度のことなので写真なし。

今夜は、別の友人に帝国ホテルのディナーをご馳走になる。
一生に一度なので、こっそり写真を撮った。

どちらも美味しいし、楽しいし、ありがたい。
子も孫も、お金もないが、友達が財産だ。

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これからまた別の友人と珈琲の予定。

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# by kazematic-night | 2018-11-07 21:06 | | Trackback | Comments(6)

新米の行方

2016年の春先、ふるさと納税をした。
その前の年もした。
住んでいる自治体の長が嫌いなのもあるが、まあお礼の品目当てという、浅ましい考えである。
差し引き2000円の納税額で、いくらの品が手に入るか。
綿密に計算して納税した。
いい人ぶってなんかいられない。

なんといっても、コメだ。
おカネがなくなっても、コメさえあれば、生きていける。
自分では絶対に買えないそこそこのブランド米、20㎏をもらった。
しかも、その年の新米が秋に届く。
前年は実家と半分ずつにした。

その春は、もう実家はすでになく、母は老健に、兄はうちにいた。
でも、当たり前のように納税をした。
食べても食べてもコメがあふれるほどあるという幸せに、私は酔っていた。
だって実質2000円で20㎏だもの。

それが一昨年の秋に届いた。5㎏の袋が4つ。
兄は、うちに来てから末期がんとは思えぬほど元気になり、食欲も出て、すこし太った。
もしかしたら、このままがんは消えちゃうんじゃないか。

春になり、私は前のコメがまだたくさんあるのに、また納税をした。
しないということは、兄がいなくなることだという気がして、生活を変えるのが怖かった。
次の年も、その次も、当たり前に兄がいて、たくさんおコメを食べて、元気に暮らせるに決まってる。
だから、兄の新しい服も、とりつかれたように買いまくった。

だけど。
夏が来て、兄は逝ってしまった。
おコメはまだ、たくさん残っていた。
そこに、秋の新米が届く。
独りになった私に。

分けられるところに分けた。
古米をあげるわけにはいかないから、新米を。

それでも少しくらいは私も新米を食べたいので、5㎏の袋をひとつだけ残した。
そこにさらに、私の暮らしを心配してくれた友人から、ふるさと納税のことなど知らずに、2件、3件とおコメが届く。
ありがたい。
ありがたいけれども、どうしよう。

なのに。
兄がいなくなって、夕食を作らなくていいと思うと、早く帰らなければという気が失せた。
夜遅くまで仕事をして、10時か11時に外で食べて帰る。
帰ってから自分のためだけに支度をして食べる気力はなかった。
深夜に帰宅して、それから入浴すると、ベッドに入るのが1時、2時となり、もう翌日のお弁当も無理という気になる。
1日おきになり、2日おきになり、週に1度くらいになった。
おコメはちっとも減らなくなった。

2017年の新米を食べたいと思いながら、手元にはまだ2016年のコメがあり、そのまま年を越した。
それが。

今年の春も終わりごろになり、ようやく去年のコメに手がついた。
もう新米とは言えまい。
袋からライスボックスにあけると、なんだかやけに黄色い。
38度になる夏の我が家を越すため、密封容器に入れて、冷蔵庫の野菜室に収めた。
1合ずつとぐために、カップに入れるたびに、黄色みが増している気がする。

早稲の新米をスーパーで見かけるようになると、私は心の隅でこっそりと思った。
2018年の新米が食べたい。。

子供の頃は飢えて育った。
戦時中でも戦後すぐにでもないのに、私は栄養失調で、母は学校からよく叱られた。
単純にカネがなかったからだ。
コメが買えない。
ただそれだけ。

母は、うちよりはマシなところに嫁いだ姉妹から着物を送ってもらって、それを質入れしてカネをつくった。
あるいは、その日に納品した内職の代金を頼み込んでその日に現金でもらったり。
兄がそのおカネで、1合ずつコメを買いに行ったという。
同じ米屋では恥ずかしいので、自転車で今日は隣の町、明日はその隣と、足を延ばしたと言っていた。
私は小さかったので、それはあとから聞いた笑い話。

だから、おコメがたくさんあるだけで、ほんとうはうんと幸せだったのに、私はだんだん、それがうっとおしくなり、そういう自分を責めた。

それが。
昨日、やっと食べ終わったのだ。
正直、ホッとしている。

今週末には今年の新米を買おう。
割高だけど2㎏。
ご飯も好きだが、麺類もパンも好きな私。
もう、そんなに要らない。
私もいつどうなるかわからないので、ちょっとずつちょっとずつ細切れにものを買う。
水とトイレットペーパー以外、買いだめはしないでおこうと決めた。

ちなみに、コメ20㎏が2000円と目論んだ2017年は、兄と母の医療費がかかり、母も障害者となって控除金額も増えたので、ふるさと納税はちっとも得になっていなかったという始末。

今年はもちろん、していない。
「いつもの」自治体からは、いろいろお知らせが来るけれども。
不純な動機ですいません、と心の中で言っている。

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「真っ直ぐに 生きられないのは 背に残る 翼の痕が 不揃いなのね」

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# by kazematic-night | 2018-11-05 22:36 | 日常 | Trackback | Comments(0)

フランス語で「Poisson d'avril」は四月の魚、四月馬鹿のこと。日々のどうでもいいような話の置き所。過去の非公開ブログから適当に集約して移行中。可能な限りオンタイム更新もしたい。


by 風待ち