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フランス語で「Poisson d'avril」は四月の魚、四月馬鹿のこと。日々のどうでもいいような話の置き所。過去の非公開ブログから適当に集約して移行中。可能な限りオンタイム更新もしたい。

by 風待ち

買い置き

買い置きは、あまりしないほうだ。
新商品が出たら試してみたいし、そっちが気に入っても、どっさり在庫を抱えていたら乗り換えできない。
コンビニは近いし、スーパーにも歩いて行けるし、一人になってからは、ないものはあるもので間に合わせても誰にも咎められない。

が、例外はあって、水とトイレットペーパーは、買い置きしている。

そろそろトイレットペーパーを買わなきゃと思っている矢先に、東日本大震災が起こった。
家ではトイレに入らないをモットーに頑張った^^;
見かねて、大阪の友達が送ってくれた。
以来、災害時に不足すると困るものは買い置きしている。

最近、結構インパクトのある地震が続く。
緊急地震警報の音に縮み上がる。
で、なんでか知らないが、ティッシュペーパーが品薄状態。
ま、ティッシュは、最悪トレペで代用できるからと思って、とりあえず水とトイレットペーパーの買い置きを補充した。

東日本大震災のときに、ヒビが入った壁はそのまま。
次に大きく揺れたら、ここから割れるのかなぁと思いつつ。

# by kazematic-night | 2019-06-25 22:36 | 日常 | Trackback
我慢できずに「はやてん」を見て、大泣きした。
そして、「ほんてん」を見て、さっきは泣かなかったところでも涙と鼻水が出た。

そのあと、ツイッターを見て、多くの人たちが私と同じように涙していることに、さらに感動した。

タイトルは、劇中のセリフ。
夜になると、バラックの中では、関東大震災で避難生活を送る人たちが忍び泣く声が聞こえる。

いつ終わるか知れない戦いがある。
先のことを考えると、ぞっとする日々がある。
災害や戦争だけでなく、日常の暮らしでもだ。
絶望とか希望とか、そんな仕分けをする余裕もなく、ただ懸命に今日を生き抜く。
そして。
静まり返った夜の闇の中で、眠ることもできずに泣く。

でも。
朝になったら、何食わぬ顔で「おはよう」って言うんだ。

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「いだてん」というドラマタイトルを見事に回収した第一部の大団円。
教科書に載っていない、学校で習わない、名前も知らなかったひとりひとりの生きざまを、説明や解説ではなく感じさせるセリフと演技と演出。
その時代を生きて、今日に繋いだ無数の大河ドラマがある。
これまでになかった、緻密で、かつ壮大な歴史ドラマだ。
先週と今日と、圧巻の脚本と演技、演出だった。
この2週分は、たぶん私の大河ドラマベスト10のにおいて、絶対王者の「真田丸」を抜く。

人って弱い。
弱いけどたくましい。
そして優しくて、あったかい。

今回はとりわけ、光の撮り方が印象的だった。
この光だけで、復興を感じさせる見事なものだった。
いろんなことがあっても、一晩泣いて、明日の朝には「おはよう」と言おうと思わせる、日曜の夜にふさわしいドラマ。

# by kazematic-night | 2019-06-23 21:05 | 日常 | Trackback

怪談

父方の祖母が逝ったのは、私が高校生のときである。
共働き家庭であったから、私の幼いときの面倒はこの祖母と歳の離れた兄が見てくれていた。

祖母は、後妻である母には手厳しい姑であったが、幼い頃の私には優しい人であった。
同年代の子供と遊ぶ機会のほとんどない私には、この祖母の話が、外界への大きな扉であったと言える。

「わが(私は)言うたちゃ。母ちゃん、わがにあの赤いきれ、取ってくれ。頼んさかいに取ってくれちゃ。」
祖母は、幼い私を前に話し始める。
きざみタバコを長いキセルに詰めて、詰めたまま、火をつけずに祖母は話す。
子供にタバコの煙は良くないと逡巡したのか、そのまま指で弄んでいることがよくあった。
丸い火鉢が、大きな灰皿代わりなのか、夏でも祖母の寝間の傍らに置かれていた。

「母ちゃんはな、はしごをかけて、その赤いきれを取ってくれたがや。ほやけど、はしごの上からわがに赤いきれをほってよこしたらな、そのまままっすぐに落ちたがやちゃ。はしごの上からな。ほして、死んでん。」

本当かどうかわからない。
祖母の両親がどんな人で、祖母がどんな子供時代を、いや子供時代どころか、どんな娘時代を送ったのかも私は知らない。

ともあれ、祖母はこの「赤い布」の話をよく私に言ってきかせた。
軒先にぶら下げられた赤い布は、いったい何のためなのか、誰がそうしたのか、そんなことはいっさい語られない。
ただ、その赤に魅せられた祖母が、たぶん身体のあまり丈夫でない実母に取ってくれとねだるシーンが際立っていた。
そして、はしごから落ちた祖母の実母は、そのまま寝付くか何かして、死ぬのだ。

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昔は、夏になるとテレビでよく怪談映画をやっていた。
お岩さんとかお菊さんとかお露さんとか、化け猫なんてのもあった。
祖母はそういう映画が好きで、毎年見ていた。
ストーリーはすっかり頭に入っていて、次のシーンで「うらめしや~」となることもわかっている。
それでも、というか、それだから安心して怖がることができるのだった。

恐怖という感情は、たぶん不安がもたらすもの。
敵が何か、あるいは敵かどうかがわからないから怖い。
未知の展開に対して突然の対応を迫られる。
そこに予測される危険を回避するための防衛本能が「恐怖」だ。

年を重ねて、もう「怖いものなし」になったような気がすることがある。
しかし、どんな経験を経ようと、明日のことはわからない。
だから、日常はやはり、いつだって恐怖と不安に満ちている。
その中の最大のものが、死だ。
いや、死に方だ。
どんなふうに死ぬのか。
痛いのか。
苦しいのか。
一瞬なのか。
長くつらい時期の果てに、待ち望むものなのか。

山形と新潟の辺りで、大きな地震があった。
首都直下や南海トラフのことは日頃から耳にしているけれど、それ以外のどこでどう大災害が起きても不思議ではないということを突き付けられた。
折しも、絶賛した先週の「いだてん」では、関東大震災が描かれた。

上っていたはしごが急に倒れる、ということを想像する。
赤いきれの話は、私の中で最も恐ろしい「怪談」である。
はしごだから階段、というわけではない。

先週から気になっていたのだが、「いだてん」の被災跡のカットで一瞬だけ、星野源が映っていたような気がしてならない。
彼が演じる平沢和重の経歴は、ウィキだと1909年の生まれで東京帝国大学に進んだとなっていて、大震災のときは14歳である。
その頃の彼がどこに暮らしていたのか、検索したけれどわからなかった。
誰かがツイートしていないかと思ったけれど、見つからない。
思い違いなのかと思って、今日再度録画を見たら、やはり焼け跡に佇む少年が瞬間的にこちらを向いていて、それが星野源に似ているように見える。
公式には、彼の登場は、まだずっと後のことらしい。
これもまた、私には怪談である。

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# by kazematic-night | 2019-06-22 22:22 | 日常 | Trackback

飲み食い

友人の年齢層は広いほうだ。
20代から70代までいる。
年齢や性別や職業などにあまりこだわらないのは、たくさん旅をして、たくさん人と出会ってきたからかもしれない。

それでも、同年代ならではの楽しみもあって、自分が子供だった頃に見ていたテレビとか、流行った歌とか、好きだったアイドルとか、とめどなく盛り上がる。
言いたい放題である。
私は、百恵ちゃんも淳子ちゃんも好きだったし、聖子ちゃんも明菜ちゃんも好きだった。
割と、どっち派、みたいな流れがあったけれども、私はどっちも派だ。

で、とあるアイドル歌手が苦手だった。
生理的な嫌悪感もあり、発言内容が気に障ったのもあり、「絶対に友達になりたくない」と思っていた。
もちろん、友達になる機会はないし、向こうだって嫌がる(笑
良さがさっぱりわからず、どうしてこんなに売れるのか、人気があるのかと不思議に思っていた。

で。
昨日、そのことを初めて友人に言ってみた。
大告白である。
もし、友人が彼女のファンだったら・・・と怯えつつ。

でも、幸いなことに、似たような好悪だったので、心底ホッとした。
そして、もしここにファンがいたら刺されるね、と言いながら、嫌いだったという思い出も含めて懐かしんだ。

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誰かと食べるって、イコール誰かとしゃべることだ。
ときどき、向かい合ってそれぞれスマホだけ見ているカップルを飲食店で見かけるけれども、あれって、お互いにあれで満足しているのかな。
同じ空間にいればいいのかな。
まあ、顔を見れただけで嬉しいというのもあるけれども。

友達と会っているときに、心がけていることは、時計を見ないこと。
昔、別の友達と初対面で飲食して帰宅したあと、私が一度も時計を見なかったことに感激したというお礼のメールが来た。
そのときはたまたまだったのだけれど、以来、心がけている。
その分、早く帰りたいときは、わざと時計を見る(笑

私は、もう30年くらい腕時計をしていなくて、それでも大体の時間がわかる。
というか、周囲にある時計を見ているふうでなく見ることができる。
これは、履歴書には書かないけど特技。

時間なんか忘れてしまうほどにしゃべれる相手となら、食べ物なんて注文しなくたっていい。
一人で入る店にはこだわるけど、気の合う人となら、どんな店かとか何を食べたかとかどうでもいい。
誰と食べたかが大事。

明日も別の友達と飲食予定。
老後資金を貯めるのをあきらめたので、元気でいるうちに、会いたい人には会う。

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今朝のモーニングサービス。
朝、カフェに寄るのは、空腹のためではなく、仕事を頑張るためのジャンピングボード。

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朝もお昼も、決め手は禁煙マーク(^^;

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一人のときは、珈琲の美味しさもさることながら、一人の空間を買っている。



# by kazematic-night | 2019-06-21 22:25 | | Trackback

長生きする資格

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兄が生きていたらと仮定して、試算してみた。
私が離婚せずにいて、引き取れないという前提だ。

まず、家賃だ。
私の住む辺りだと、1DKでも共益費と合わせて50,000円はする。
これに光熱費と通信費を足すと、15,000円くらいかかるのではないか。
テレビやスマホなしでは情報難民になってしまう。
テレビがあれば、NHKを見なくても受信料を払わねばならない。

それから医療費だ。
低所得者の高額医療費制度を受けると、月30,000円ほどで済む。
ただし、再発の予防も含めたがんの治療などは、保険でできる範囲ということになる。
効果があるかもしれないとわかっていても、お金がなくては手も足も出ない。

これだけで95,000円だ。
兄は週に3日デイサービスを利用していて15,000円ほどになった。
そのほかに食費や日用品費が20,000円としても、合計130,000円。

兄の年金額は月に55000円だった。
がんが悪化しないで95歳まで生きたとする。
月々のマイナスは75000円。
1年で900,000円だ。

65歳から30年間、毎年90万のマイナスを出すと、27,000,000円。
病気をしないとして、医療費分を除いても、16,200,000円。

新卒で入社し、いくつか転職をしたとしても定年まで働いて厚生年金をかけていた人。
自営の人。
自営がうまくいかなくなった人。
あるいは、介護離職した人。
健康な人、そうでない人。
配偶者や子供やきょうだいがいる人、いない人。
家がある人、賃貸の人。
貯えのない人の中にも、ないなりのいろんな理由がある。
努力の有無とは関係ない無一文だってある。

モデルケースってなんだ?
どれくらいの人がそこに当てはまるんだ?
上に外れる人もいれば下に外れる人もいる。
モデルケースって必要なのか?

一番条件の悪い人でも、このくらいは必要ですとか、ここまでは政府や行政でなんとかできますとか、どうせならそういう回答のほうがまだマシだったんじゃないのか。
不適切とか受け取らないとか、そんなの、私たちの暮らしにどんな関係があるのか。
自分の年金がどうなっているか知らなくても十分に豪勢な生活をしていける代々の金持ち政治家の意向には関係なく、長生きするのに必要な金額は厳然と存在して、みんな唖然としているのである。

生きていてくれるだけでいいと思う日もたくさんあったが、兄は死んだ。
マイナス分を引き受けていた私は、結果として、貯えは失くしたが、老後のための貯蓄をあきらめれば、いまの支出はぐんと少なくなった。
兄の試算はしたが、私自身のそれはしていない。
したら、生きていくモチベーションが保てないからだ。
長生きする資格はないと言われているような気がするからだ。

国民に、あなたの貯蓄額では長生きできないと突き付ける。
そんな国でも戦闘機を買うお金はあるらしい。


# by kazematic-night | 2019-06-19 22:22 | 日常 | Trackback

辟易

会社に行く前に近くで珈琲。
前から気になっていた店に入ったけど、中は喫煙所と化している。
たしかに、珈琲ならコンビニでも足りるもんねー。
みんな、珈琲飲みにじゃなくて、タバコ吸いに入ってくるんだね。

もう二度と入らない。
この街の住人、勤務している人、喫煙率高い。
会社の女性も、みんな吸っている。
びっくり!

麻薬と同じように、法律で禁止して欲しい。
咳込んで苦しい。


# by kazematic-night | 2019-06-19 09:31 | Trackback

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ひとりが好きだ。
でも、ふたりも好き。
状況によっては、三人も四人もいい(ごくまれに)。

本当に見たいものは、原則としてまずひとりで見たい。
映画、ドラマ、舞台、コンサート、美術品、それから風景。
もちろん、例外はある。

ひとりで見るときは、自分が感動し満足することが最優先である。
ふたりまたはそれ以上で見るときは、その人たちが感動し満足してくれることを願う。

ひとりで見る幸せは、その対象物を見られた幸せ。
ふたり以上で見る幸せは、それを見て幸せを感じている人を見る幸せ。
私がその幸せの一部を演出できたという自己満足。
私みたいな者でも、ひとさまの幸せづくりに関われるのだと感じることは、人と関わって生きていくことの励みになる。
もちろん、結果としてひとりよがりのこともある。
それでも、誰かの喜ぶ顔を想像することは悪くない。
そんな過程があってもいい。

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だから。
例えば、昔は見たい映画があったら、まずこっそりとひとりで見に行った。
自分の心を動かす作品か見極めながら、感動したら涙が出てもかまわない。
だってひとりだもん。
ま、最初から「泣ける」と謳ったものは、あまり観たくない(^_^;)
そして、見終わって考える。
一緒に行きたい人の好みに合うかどうか。
ひとつひとつのシーンを思い起こし、その人の心が動くさまを想像してみる。
そういう過程の楽しみがある。


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風景も同じ。
そして、嘘をつく。
あなたと初めて見るのよ。
いや、確かに「あなたと」見るのは初めてだ(笑)。

予想通りでも、反しても、その人が満足してくれるのを願う。
満足してくれる顔を見る幸せが、映画や風景の感動より大きい。
2度目は、そういう楽しみだ。
それぞれが楽しい。
単純に、ひとりがいいかふたりがいいかと比較できないものだと思う。
基準が違う。
だから、両方欲しい。
私は、贅沢なのだ。

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そして。
ブログを始めて、また別の楽しみを感じるようになった。
ひとりで読んだ小説、ひとりで観たテレビや映画について、誰かが自分と似たような感想を持っていることがわかったとき。
それを書いた記事を拝見できたとき。

そうそう!そうなのよ!と、ディスプレイの前で思わず膝を打つ。
自分が感じていた疑問、これからの展開のための伏線ではないかと思える箇所、それから確かに心が動いたのに、明確な言葉にすることができないでいたとき、それをピッタリの文章で言い当てられているのを見ると、本当に嬉しい。
それぞれに、それぞれの好みと都合にしたがって何かを読むか観るかをして、感じたことをどうしても書き残したいと思ったその気持ちとタイミングの一致が、快感なのだ。

感動した箇所の共感もいいが、ケチをつけたいところの一致が、さらに嬉しい(^_^;)
私には、好きの一致よりキライの一致が大事。
好きの一致は嗜好の一致だが、キライの一致は感性の一致だから。

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今日は、役所に行った帰り、紫陽花を見に行った。
ほとんどは老夫婦や女性グループだが、ときおり一人で来ている人と行き会う。
会釈とは別に、胸のうちで「ねー!」と言い合っているような気がして、すれ違ったあとにこっそりとほほ笑む。
あの人、どこかのブログにここの花をアップしているかもしれない、と思って。


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夏の盛りを過ぎ、形のまま枯れている紫陽花も好き。
触れたとたん、粉々になってしまいそうな。

「散る花は 咲く花よりも いとおしき 我が身も親も 重ね見ゆる朝」

# by kazematic-night | 2019-06-17 17:05 | 日常 | Trackback

「らしい」の陰謀

どうでもいいことなのだが(全部そうだが)、大河ドラマでの私のベスト1は「真田丸」だ。
私はテレビっ子なので、その季に面白いドラマに出会えないと、日々の暮らしの楽しみが減ってしまうので、口直し的に以前のドラマの録画を見る。
今季はあまりないので、週に2話とか3話「真田丸」を見ている。
オンタイム時、BSの「早丸」、地上波の「本丸」、録画した「録丸」、再放送の「再丸」と、週に4回は同じものを見ていたので、通算すると5回目である。

他には、「新選組! 」「篤姫」「八重の桜」などが上位に入る。
しかし、今日「いだてん」が2位になった。
「早てん」「本てん」「録てん」と見ている。
再放送だけは、出かけていることが多くて見られない。

関東大震災の描き方に圧倒された。
「あまちゃん」のときの東日本大震災のときも私は絶賛し、他サイトのブログに書いているが、今日はそれをはるかにしのいで、演出もセリフも演技も凄みに満ちていた。
泣く余裕すらなかった。
プロジェクションマッピングふうの地図の前で、高座に上がるごとく震災を語る若き日の志ん生。
こんな演出、いままで見たことない。
あと、3回は見よう(^^;

すべては、この一瞬のためにあった、と感じる瞬間が好きだ。
物語でも、実生活でも。

連ドラを見る楽しみは、伏線の発見や想像と、回収によるカタルシス。
ああ、あのシーンは、このためだったのか、と。

長いスパンで伏線を張り巡らすには、全体を俯瞰しながら細部に気を配らなければならない。
映るか映らないかのほんの一瞬。
気づかない人はそのまま過ぎていき、気づかなくてもストーリーは流れていく。
そういうところに気づきたい。
なので、何度も見て、発見する。

そうすると、ちっともわかりにくくない。
夕飯を食べながら、家族と団らんしながら、BGMのように流している人には、わかりにくいだろう。
だから、視聴率がふるわない。
それでいいのだ。
見た人の満足度では常にトップ。
制作陣は、充分に誇っていい。
見ていない人は、損をしているだけ。

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「らしい」ってなんだろう。
「男らしい」「女らしい」「母親らしい」「日本人らしい」etc。

これはずるい言葉だと思う。
「あの人は男らしい」と思ったとして、その「男」は、あくまでも自分が思い描く男性像である。
願望ともいえる。
男ならこうあってほしいという思いだ。
それが嵩じると「こうあるべき」になる。

「もっと女らしくしなさい」と言われたら、それは言った当人の理想の女性像に近づいてほしいということだと思う。

個人の思いを、あたかも「世間の考え」であるようにすり替えている。
そして、その「世間」は、使う人の都合によってアメーバのように大きさも形も変えながら、署名のない免罪符を配って歩く。
免罪符は水戸黄門の印籠と同じ。

「大河らしくない」ってなんだ?
「朝ドラ」はこう、「月9」はこう、という印籠がないと、人々は不安でならないのだろうか。
私は、芸術は、自分のオリジナリティーで固定観念をひっくり返すことだと思っているのだが。

「大河らしくない」というのは、あまりに違和感がある。
ただ「自分の好みではない」と言えばいいのに。
「自分」のモノサシを「世間」のそれとすり替えるなと思う。

自分はこうだ、と言い切る人の少ないこと、言い切ることを怖がる人が多いことに、驚くばかり。
是非でも正誤でもなく、自分の好き嫌いぐらいは誰かに伝えてもいいんじゃないかなと思うのだが。

# by kazematic-night | 2019-06-16 22:41 | 日常 | Trackback

ビリへの拍手

いまの私からは想像もつかないが、かつては「マッチ棒の少女」だった。
マッチ棒など、もうほとんどお目にかかる機会もないので「つまようじの少女」と言ったほうがいいだろうか。
栄養失調の発育不足で、ひょろひょろのガリガリに痩せていた私は、いまなら虐待を疑われたかもしれない。

学校生活で何が嫌いといって、身体測定と運動会ほどイやなものはなかった。
そもそもテストのある日を除いて、進級できる最低限の日数しか登校していなかったけれど、身体測定と運動会はほとんど休んだ。
それらは恥辱というか、屈辱の日だった。

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友人の記事「ビリへの拍手」に猛烈に共感した。




もうそこの記事の世界に丸ごと入れてほしいくらいなので、あえて同じタイトルで。

そこに、
この例えばマラソン大会の時とか、ビリの人に拍手をするようになったのっていつからなんだろう
みんなさも良いことのように手を叩くけど
ビリでいることの恥ずかしい惨めな気持ちなんか手を叩いている人にはわからないんだ

手を叩かれてそこを走るとき、どんな顔をしたら良いのか
愛想笑いみたいに笑ってごまかすしかなくて
で,笑って走ってると、歯を食いしばって走らないからビリなんだ、みたいなことを言われる

恥ずかしくてどうしようもないのに,そういうふうに見られる
ほんとは誰も居ないところをこそっと帰って来たいのに」

と書かれている。
私もずっとそう思っていた。

負けることが好きな人なんていない。
VTRが再現されるとしたら、ピッチャーならホームランを打たれた場面より三振をとったシーンを流してほしい。
ストライカーはシュートを決めた場面が嬉しいし、キーパーなら止めた映像を望む。
みんなの視線を集めるなら、かっこいいところに限る。

ビリへの拍手は「あきらめずによくやった」と、その健闘を称えるものだろう。
でも、そこには「ビリなのに」「負けがわかっているのに」という言葉が省略されている。
健闘を称えるほうに悪気はなく、むしろ素直な善意に満ちている。
くさらずに最後まで走り終えたあなたは立派だ、そういう自分を誇りなさい、と。

でも。
ビリは考える。
想像してしまう。
負けたのは、おまえの努力が足りないからだ。
能力が劣っているからだ。
そういう指摘。
そして、好奇と嘲笑。
ほら、見ろよ、あいつ、まだ走ってるぜ。

自分でもわかっていて、だからこそ他人に指摘されたくないことを、拍手が指摘する。
拍手が、全員の視線を呼び寄せる。
自分の能力と努力の不足が、大勢の目にさらされる。

誰もいないところを、こそっと帰って来たいよ。
ビリはそう思う。
歩いていても転んでしまう、骨の細い、筋肉も体力もない子供だった私は。

「あなたのために」というのが嫌いだ。
人はたぶん「あなたのために何かをしてあげている自分」が好きなのだ。
「誰かの役に立つ自分」を意識しないと、自分のアイデンティティを損なうのだ。
「優しい自分」「慈愛に満ちた自分」に酔うのだ。

勝者のみを称え、まだ走っている人を残して立ち去ることは、何か冷酷な感じがする。
どこかに「キリ」が欲しい。
最後のランナーが、張り直されたゴールテープを目指すタイミングは、絶好の「キリ」だ。
拍手の中でテープは切られ、競技は終了し、観衆は「帰るタイミング」を得る。
だらだら解散ではない「締め」が終わって、堂々と帰れる。
最後の競技者のために惜しみない拍手を送った優しい観客、として。

もちろん、すべてがそうではない。
けれど、そういうこともある。
そういう思いで、走っているビリもいる。
おまえらに、オレの気持なんかわかるかよ、とか思いながら。
努力では賄えない能力や境遇や思いの差にめげながら、どうかこんなかっこ悪い私を見ないでと願いながら。

学生時代の運動会は、休めば済む。
でも。
大人になって思うのは、似たようなことがいくつもあったなぁと。
逃げたくても逃げられない場面で、自分のみっともなさを曝さなければならなかったこと。
思ったことがある。
「外側から無邪気に拍手してるやつらに、私の気持ちはわからない」って。

だから。
たまに、申し訳ないような思いで、ひとさまの記事にイイネをつけていることがある。
過ぎると、それすらできないことも。
でも、そういう気持ちにまったくならず、無邪気にイイネできるものが、私にとっていいブログかというと、たぶんそうではない。

# by kazematic-night | 2019-06-15 15:52 | 日常 | Trackback

夢のトモダチ

一生懸命話しかけられているのだが、何を言われているのかちっともわからない。

もどかしさの中で凝視すると、わずかに口のカタチが「だ・い・じ・ょ・う・ぶ」と読み取れた。
自分が大丈夫と報告しているのか、私が大丈夫なのかと気遣ってくれているのか、それとも何もかも大丈夫だよ、心配要らないよと言っているのか、イントネーションがないからわからない。

その場面には、音がない。

真夜中なのに薄明るいのは、まぶたの裏に透けて見える国道の黄色いライトなのか、走り去る車のテールランプの赤なのか、それとも、まぶたに流れる赤血球のせいなのか。

かたつむりのくせに、羽が生えている。
乾いた渦巻きの殻からぬらりとした胴体が見えるあたりに、カーキ色のわりと厚めの羽が2枚生えている。
作業着の生地のようだ。
もう2枚あるのかもしれないが、私には見えない。

なんとなく、重そうで、到底飛べるようには思えないのだが、こいつは飛ぶ。
「かたつむ蛾」と名づけてやった。
本人が納得しているかは定かでない。
正式な名を名乗られたこともないし、尋ねたこともない。

ときどき、そいつが訪ねてくる。
初めて会ったのは、たぶん30代の頃。
心身ともに打ちひしがれていた頃だった。
いや、打ちひしがれているという感覚さえ拒否している無感覚で無感動の日々を送っていた頃だ。

だから、突然訪れたこの奇妙なイキモノを怖いでもなく、気持ち悪いでもなく、不思議とも思わず、ありきたりで当たり前な日常の光景のように見ていた。

以来、まったく不定期に、突然、こいつはやってくる。
体調と関係があるのか、データをとっていないからわからない。

いつからか、こいつがしゃべっている、と感じるようになった。
でも、何語だかわからない。
日本語なのか英語なのか、またはかたつむ蛾語なのか。
表情や身振りがないから、言葉がわからないと、お手上げである。
私に話しかけているのかさえわからない。

おかしなもので、こいつの背後には風景というものがない。
それまでは、街や自然や家や会社や駅などのリアルな背景があるのだが、こいつが出てきたとたん、それらは暗幕の中に隠される。
私は、昔の写真屋さんのように黒い布をかぶった箱のカメラに映し出されるそいつだけを見ている。
そして、ああこれは夢だと認識するのである。

先日、久しぶりにこいつが現れて、「大丈夫」と言っているとわかった。

でも、私は何も答えていない。
私からはこいつが見えるけれど、こいつからは私が見えない、そんな気がしている。

カメラと感じたけれど、よく考えてみると、テレビに近いのかもしれない。
いや、テレビよりもう少しリアル。

その羽には、蛾らしい銀粉はないけれど、もしあれば羽ばたいた瞬間に私の肌につきそうな気さえする。
私が蝶類のこの粉が嫌いだと知って、きっとつけないできたのだろう。

最近になって、かつてありきたりと感じた「かたつむ蛾」が、特別と感じるようになった。
へんなイキモノだなあと気づいた。

「へんないきもの」という本にはまだ載っていない。
ルーカスやスピルバーグが参考にしたいと言ってきたら、こいつの概要を話してやろうとずっと思っていたが、コンタクトがないままになった。

明け方、踏み切りのカンカンカンが聴こえたら、「かたつむ蛾」は行ってしまった。
重そうな布製(?)の羽をバサバサと羽ばたいて、私に後姿を見せた。
ぬめりとしたシッポ(?)が一反もめんの裾のようにはためいている。
案外軽やかだった。

そのシッポが這った明け方の空に、見えない粘液が飛行機雲のように残っている。
そこに向かってつぶやいた。
「私は大丈夫」
ついでにVサインもしてやったのだが、やつは振り返らなかった。

# by kazematic-night | 2019-06-14 16:07 | 日常 | Trackback